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堂園 晴彦 院長の独自取材記事

堂園メディカルハウス

(鹿児島市/鹿児島中央駅)

最終更新日:2021/10/12

堂園晴彦院長 堂園メディカルハウス main

鹿児島中央駅からほど近く、目の前には木々が立ち並ぶ公園があり季節の移ろいを感じられる環境に、院長の堂園晴彦先生が1996年に開業したのが「堂園メディカルハウス」。入り口横には池が造られていて、待合室からも眺めることができる。また、内観にも外観にも曲線がふんだんに取り入れられていて「患者さんがほっとする空間にしたい」という院長の思いが形になった建物だ。祖父、父も医師だった堂園先生に、これまで手がけてきたがん治療・緩和ケアや、これからの医療にかける思いを語ってもらった。

(取材日2020年7月27日)

身近だった医師の道へ、国立がん研究センターで学ぶ

医師をめざしたきっかけや、堂園院長の経歴を教えてください。

堂園晴彦院長 堂園メディカルハウス1

私の祖父が、吉野に診療所を開いていました。当時は無医村だったそうで、吉田の辺りまで広範囲にわたり、馬に乗って診察に行っていたと聞きます。父も、医学部に進み産婦人科の医師となりました。戦時中は軍医として海外に赴任し、終戦後まもなく、現在のこの場所に産科を開院しました。祖父も父も医師でしたから、幼い頃から医療は身近なものでした。進学先を決めるときには、ごく当たり前のように私も医師の道をめざし、東京慈恵会医科大学に進学しました。卒業後は東京慈恵会医科大学附属病院で産婦人科の医師として4年間勤務し、当直をするなどして研鑽を積んできました。

がん治療の道に進んだのはいつからですか?

産婦人科の医師として大学病院に勤務していた時、恩師である大川清先生と出会ったことが転機となりました。慈恵会医科大学は当時、卵巣がんの治療に力を入れていて、大川先生はその中で活躍していた先生でした。大学病院では小児がんの患者さんも診察していました。がんについてもっと学びたいと思うようになった私は、国立がん研究センターで3年間、徹底的にがんを学びました。全国から同じ志を持つ医師が集まっていて、ひたすら勉強の日々です。朝6時から夜11時まで働き、とにかく過酷でしたが、私の今の医療の原点ともいえる何物にも代えがたい宝物のような時間でした。

国立がん研究センターでは、具体的にどのような経験を積まれましたか?

堂園晴彦院長 堂園メディカルハウス2

国立がん研究センターは、肺、大腸、肝臓、腎臓など、体のすべてのがんを学べる場所で、座学も実習もあります。さらに詳しくどのがんを学ぶか自分で選べるのですが、私は大腸がんや肺がんについて学びを深めました。日本中から新進気鋭の医師が集まっているだけでなく、外国の医師が研修で来日し交流することもありました。夜中でも呼ばれたら診察に行きますし、患者さんのガーゼ交換は看護師ではなく医師が行っていました。職人技のような先輩医師の技術を目の前で見たり、そんな先輩方の前で発表する機会もあるなど、「後輩を育てたい」という意識が強い先輩方に恵まれた環境で、鍛えてもらいました。ここでのレジデント経験は、私の医師としてのバックボーンになっていると感じています。

後輩の育成に力を注ぎ、地元・鹿児島で開業へ

国立がん研究センターで学んだ後は、どちらへ?

堂園晴彦院長 堂園メディカルハウス3

国立がん研究センターで3年学び、その後は慈恵会医科大学附属病院に戻って後輩の育成に力を入れました。レジデント時代に私が先輩方から教わったように、みっちり指導しました。後輩たちも国立がん研究センターへ研修に行けるようにして、学びを深めてもらいましたね。その後、私が36歳の時、父が倒れたのをきっかけに鹿児島へ戻り、鹿児島大学病院で臨床研究に取り組みました。当時の鹿児島は東京ほどがん治療が進んでいなかったこともあり、大学病院では周期的な抗がん剤治療を広め、若手の医師に研究内容を発表する機会をつくったことで、全体の底上げにつながったのではないかと思っています。3年間大学でやりきった後、39歳の時に父が診療所を開いていた跡地で開業しました。

開業や、「メディカルハウス」という名前に込めた願いを教えてください。

堂園晴彦院長 堂園メディカルハウス4

がんについて一生懸命学んできたことを社会に生かすにはどうしたらいいかと考え、最初は無床診療所で在宅ホスピスを始めました。日本でも先駆け的な存在だったと思います。当時の鹿児島には末期がんの患者さんの入院施設がなく、患者さんやご家族から「入院施設を作ってほしい」という声が寄せられるようになり、有床診療所の開業を決めました。メディカルハウスの「ハウス」には2つの願いが込められています。1つは、患者さんやご家族にとって家のように落ち着く空間になってほしいという願い。もう1つは、芸術家をたくさん輩出したドイツの美術学校「バウハウス」のように、当院からも終末期医療を支える若い医療者が巣立ってほしいという願いです。そこで、医師会病院や看護学生の実習先として受け入れを行ってきました。国立がん研究センター時代は私も先輩に育ててもらったので、後輩にも現場を知ってほしいと考えたんです。

建物にもさまざまな工夫をされているそうですね。

アメリカに留学していた頃のつながりもあり、開業前にアメリカのホスピスへ見学に行きました。当時は、現在のような緩和ケアという考え方が広まっていませんでしたから、入院するといろいろな管につながれて寝たきり、というイメージがあったんです。患者さんとご家族が少しでも一緒にいられる施設をめざしました。今は入院でのケアではなく外来を中心とした医療を提供していて、待合室にもこだわっています。待つ時間も治療の一環だと考えているので、患者さんがほっとする空間づくりを心がけました。建物にはふんだんに曲線を取り入れ、外には池を造って待合室の窓から見えるようになっています。水は心に静粛をもたらすと言われていますからね。中には、いつのまにかソファーで寝てしまう患者さんもいらっしゃるくらい落ち着ける空間になっていると思います。

診察でほほ笑みが生まれる“豊かな医療”をめざして

現在は外来で、どのような医療を提供していますか?

堂園晴彦院長 堂園メディカルハウス5

開業時から「手の温もりとおもてなしのシャワー」というコンセプトを掲げています。血の通わないロボットのような“機械当て”ではなく“手当て”をする、という思いはずっと変わりません。これまで、産婦人科の医師として命が誕生する瞬間にも、緩和ケアの医師として最期を看取る場面にも立ち会ってきました。この経験があるからこそできることとして現在は心療内科に力を入れていて、職場の人間関係、親子関係、夫婦関係、不登校などの悩みを持つ患者さんにアドバイスしています。患者の「患」は、心に串と書きますよね。何が串になっているのか患者さんご自身で気づき、自分の心に刺さっている串を抜くためのお手伝いをします。やみくもに薬を使うのではなく、病気の原因を見つけて和らげるサポートをするというわけです。患者さんの人生に寄り添う意味で、私は“人生科”と呼んでいます。治療を終えた方からお礼の手紙をいただくとうれしくなりますね。

ずっと学びを深めてきた先生ですが、息抜きや趣味はありますか?

小さい頃はよく父と一緒に釣りに行っていました。私自身も海が好きで、中高生の頃は船医になるのもいいなと思っていたほどでした。今も錦江湾に出て船釣りをすることがあります。学生時代はラグビーに熱中していました。また、演劇実験室「天井桟敷」に所属していたほど、芝居、映画、コンサートも好きで、鑑賞にもよく行きます。60歳を迎えた頃から体を鍛え始め、多い時は週3、4回スポーツクラブに通っていますよ。お酒も好きでたくさん飲んでいた時期もありましたが、今は健康のため週2日と決めて楽しんでいます。

今後の展望や、先生の目標を教えてください。

堂園晴彦院長 堂園メディカルハウス6

治療法だけでなく、気持ちの面でも“豊かな医療”を提供したいと思っています。私が考える“豊かな医療”は、診察の時にほほ笑みがたくさん生まれる医療です。例えば、おいしいごはんを食べた時に「おいしいね」と感想を言うと、作ってくれた人にほほ笑みがこぼれますよね。運転中に横断歩道で子どもに道を譲ると、渡った後に振り返っておじぎをしてくれ、思わずほほ笑みが生まれます。ちょっとしたことかもしれませんが、ふとした瞬間にふわっと出るほほ笑みの時間が長いほど、気持ちのいい人生を送れるのではないかと思うんです。患者さんとのコミュニケーションを大切に、ほほ笑みが生まれる診察にしていきたいですね。そのためには、私自身の成長が必要です。今も他の病院の先生に教わったり、尊敬する先生の本を読んだりして学び続けていて、私が豊かな人間になることで患者さんに還元できるのではないかと考えています。

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